メイダン競馬場のスタンドの影で、イルミラコロ(「奇跡」という意味)の調教を見つめる一人の男がいた。調教師のアントニオ・サノだ。ダートコースを走るこの馬がバックストレッチへと消えると、サノの視線も遠くへと移る。
今のサノは世界の名だたるトップトレーナーを相手に、腕試しの挑戦状を叩きつける立場だ。サノの目に映る美しい景色は、あの恐ろしい日々とは天と地の差である。そう、2009年にベネズエラで誘拐され、36日間も薄暗く窓のない部屋に監禁されたあの日々のことだ。
サノはIdol Horseの取材に対し、「本当に恐ろしい経験でした……」と目に涙を浮かべながら語る。
「忘れようとしても忘れられる経験ではありません。あの日から15年経ちますが、今でも思い出すと涙が出そうになります」
ベネズエラは競馬を開催しているが、決して競馬大国というわけではない。IFHA(国際競馬統括機関連盟)はベネズエラをパート2国と定めており、首都のカラカスにあるラ・リンコナダ競馬場で開催される重賞レースも、国際的にはリステッドの格付けとして扱われている。
しかし、この国は世界の競馬界に爪痕を残してきた。ハビエル・カステリャーノ、ジュニオール・アルバラード、ラモン・ドミンゲスといった北米の一流ジョッキーはベネズエラ出身であり、1971年のケンタッキーダービーとプリークネスSを制したキャノネロはベネズエラ調教馬としてキャリアをスタートさせた。
「ベネズエラの国民的な娯楽は野球と競馬です。ベネズエラ人は競馬が大好きです。もはや我々の国の一部なんですよ」とサノは語る。
そんなベネズエラ競馬200年の歴史の中で、最多勝利調教師の記録を保持するのがサノだ。母国では地元の都市の名前を冠し、『バレンシア競馬の皇帝』と賞されている。1988年から2009年の期間に挙げた通算勝利数は3,338勝、リーディングトレーナーは19回(18回連続も含む)獲得している。
「父、祖父、伯父、みんな競馬に関わる競馬一家でした。私が競馬の世界に飛び込むのも必然でしたね。多くのことも成し遂げたし、多くのことも学んできました」
サノが競馬界のスターに上り詰めたころ、ベネズエラは政情不安に見舞われていた。ウゴ・チャベス大統領、そして後継のニコラス・マドゥロ大統領による政権下では、同国は貧困が急増し、経済は破綻状態、犯罪の増加も留まるところを知らなかった。
2009年、サノが誘拐された年のベネズエラでは、同様の誘拐事件が673件も発生している。また、銃を突きつけてATMで現金を引き出させる、『エクスプレス誘拐』と呼ばれる手口の犯行に至っては、16,000件を超えていた。
実はサノも36日間の誘拐事件に遭う数週間前に、エクスプレス誘拐の被害に遭っている。その時は4時間をかけて7つのATMを回らされ、現金を奪われたという。
しかし、2009年の7月24日の早朝に起きた事件はそれでもなお想定外だった。
「自宅の前を不審なトラックが行き来する様子は何日も目撃していました」と、サノは母国のスペイン語の事件の様子を振り返り始める。
「7月24日の午前5時15分のことでした。自宅を出ると、武装した7人組の男がそこから出てきて、目隠しをされて拉致されました」
「そこから36日間、幅4フィート×奥行き3フィート(90cm×120cm)の小さな部屋に閉じ込められたんです。寝るためのマットは縦横3フィートずつしかなく、コンクリートの壁とドアで構成された簡素な部屋でした。そのため、トイレも水もなかったんです」
「拘束するための鎖でずっと繋がれており、一体誰に誘拐されたのか、自分はどこにいるのか全く手掛かりがない状態でした。誘拐犯とも会話らしい会話すらなかったんです」
ほとんどの日は食料を与えられず、運が良くても米と鶏の手羽先の「残り」を与えられる程度。体重は18キロ近くも減り、今も健康面での後遺症に苦しんでいる。
監禁されてから15日間、彼の妻で工学系の大学教授を務めるマリア・クリスティーナさんは電話の前で身をすくめ、身代金要求の連絡を待ち続けた。しかし、電話は一向にかかってこなかった。妻や息子のアレッサンドロ、マウリツィオ、そして娘のネーナは、身代金目的でないならばとっくに殺されてしまったのではないかと考えていたという。
「子供達のことも案じていましたが、特にネーナのことが心配でした。まだ3歳の娘が父親のいない子供になってしまうかと考えると……それが本当に辛かったですが、娘のために頑張ろうと支えにもなってくれました」
やがて、身代金を求める電話が入ったが、それは一家が払える金額を優に超えた額だった。
最終的に、マリア・クリスティーナさんが馬主、同僚の調教師、騎手、競馬場で働く人たちの支援を受けて必死に身代金をかき集め、犯人グループに支払った。その金額についてサノも詳細は明かさなかったが、32万ドルに及ぶ大金だったと一部のメディアは報じている。
残念ながら、今日に至るまで犯人は捕まっていない。標的にされた原因としては、サノが競馬での八百長を拒んだことで違法賭博組織の怒りを買った可能性が取り沙汰された。
「誘拐される前からアメリカへの移住を考えていました。ベネズエラの治安を考えると、自分の身にも何かが起きるんじゃないかという恐れがありましたので」
「監禁されている間、毎日のように、生きて帰れたら競馬から離れた人生を送ろうと考えていました。競馬にはもう関わりたくないと思っていました」
身代金の支払いで一文無しとなったサノとその家族は、ルーツの国であるイタリアで2ヶ月過ごしたあと、マイアミの北にあるフロリダ州のコールダー競馬場へと移り住むことにした。当時、ベネズエラには160頭以上の管理馬を抱える厩舎を残したままだったという。
ゼロからの再スタートを切ったサノは、2010年4月にアメリカでの初勝利を挙げ、その後はベネズエラ時代の馬主や、アメリカに住むベネズエラ人のサポートによって厩舎を軌道に乗せた。
「新しい人生でしたが、子供たちのことを考えなければいけなかった。家族を安全に保つためにも、他国に行くのがベストでした。アメリカは私たちが何も持たない時に受け入れてくれ、たくさんの機会を与えてくれた国。ほかのどこにも行きたいと思いません。」
2013年以来、サノは毎年150万ドル以上の賞金を獲得している。中でも、2019年のドバイワールドカップでサンダースノーの3着入り、G1での入着経験は6回を誇るガンナヴェラや、2022年のケンタッキーダービーでリッチストライクの4着に健闘したシンプリフィケーションは厩舎を代表する一頭だ。


ガンナヴェラの馬主、サロモン・デル・バジェ氏はサノの身代金を捻出する上で大きな役割を果たした人物で、空き地の引き渡し場所に自ら金を届けたという。
「ベネズエラを愛する気持ちは今も変わりません。生涯ずっと私の故郷であり、ベネズエラ人であることを本当に誇りに思っています。でも、今の私にとってアメリカこそが家であり、これまで支えてくれたすべての人にとても感謝しているんです。皆さんが両手を広げて私たちを受け入れ、優しく接してくれましたから」
今年1月、自身の62歳の誕生日の翌日に、サノはベネズエラを離れて以降の通算1,000勝目を挙げた。アメリカでの勝利数を基準にすると、すでに2023年にはマニー・アスプルア調教師の記録を抜き、史上もっとも成功したベネズエラ人調教師となっている。
「アメリカに来たとき、まさか1,000勝を挙げるなんて思ってもいませんでした。この15年間は素晴らしい時間を過ごさせていただきましたし、そのおかげでこうしてドバイや世界中の舞台に挑戦できるようになりました」
イルミラコロがメイダン競馬場のコースを去るとき、妻のマリア・クリスティーナさんは夫の側に立っていた。愛、喪失、救いに満ちた旅路を支えたのは彼女の存在でもあった。そして、サノはベネズエラとアメリカの競馬界から受け取った大きな支援について口にした。
「あの誘拐は本当に恐ろしく、でも同時に信じられないほど不思議な体験でもあったんです。暗闇の中で、あんなにも多くの愛を感じることができたのですから。そして妻こそが、私にとっての奇跡なのです」